山すそに建つビニールハウスに、丁寧に並べられたナラの原木。
そこからにょきっと伸びるしいたけは、かさの直径が10センチに迫り、厚さは約6センチもある。巨大で、肉厚。重厚な見た目の一方で、触ってみるとふわっとしてやさしい。
91歳、栽培歴約70年という、山田多賀男さんの原木しいたけだ。
高野山や淡路島での予科練を経て、15歳を前に帰郷。教員だった父の仕事の関係から、外山の自宅に一人で暮らした。
「戦後で、食べ物には難儀した」
みずから田んぼで米作りしたほか、周囲の優しさにも助けられたという。
「『いも煮たで食べんさい』『風呂入れたで入りにこやあ』と近所の人が声をかけてくれた。外山の人たちはあったかいなあって思った」
しいたけ栽培を始めたのは、終戦から3年ほどが経ってから。知人のすすめがきっかけだった。親族からしいたけの菌がまわった原木をもらい、それを種菌として活用した。
原木15~20本で栽培し、「案外よく出てきて、『こりゃ、おもしろいな』って」。
木材の復興需要がピークを過ぎ、林業が曲がり角にさしかかった昭和30年代中頃、外山では地域挙げてのしいたけ栽培が始まった。最盛期の組合員は約130人。最初の3年ほどは調子よく育った。「外山のしいたけ」として、東京・神田市場での売れ行きも好調だった。
だが、そんな時期も長くは続かなかった。その後3年間、山田さんも周囲も「全滅」だったという。
「自然の世界には、何ごとも適量がある。そんなことが、ずいぶん後になってわかった」
工場や会社へと働きに出るのが主流となっていくなか、山田さんも迷った。
それでも「あきらめてまってはいかんでな」と栽培を続けた。
みずから種菌も培養するようになり、徐々に調子を取り戻していった。山にモノレールを整備し、1万本の規模で栽培していたこともあった。進物用の大きなしいたけは、口コミだけで700~800箱、北海道から沖縄・石垣島に至る全国各地から注文が入った。
しいたけの収穫は、春が最盛期。人手も頼み、夜中まで収獲と乾燥の作業が続いたという。
俳句もたしなむ山田さんは、当時の様子をこう詠んだ。
春子とる 野良着のままに 寝て起きて
90歳を過ぎたいま、ほぼ自家用に限った栽培へと切り替えている。地域でも、原木しいたけを本格的に商用栽培している人はいなくなった。
この道70年の大ベテランは、こうつぶやいた。
「苦労するから簡単にはすすめられんが、本当は、誰かにやってほしいなあとは思っとる」
(2022年3月取材/年齢は取材当時)